五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名を上げよ 雲の上まで

京都のお話、その2。


前回の龍安寺のあとに立ち寄ったのが「等持院」。

舞台「剣豪将軍義輝」を観てから行きたいな~と密かに思っていた場所。

龍安寺から歩いて15分ちょっとくらいの距離だったので、行ってみることに。




まぁ、工事中だったのでお庭だけの拝観になっちゃったんだけどねー(笑)

足利将軍家の菩提寺である等持院には、足利家の家紋がしっかりと掲げられています。

うちも足利から分かれた血筋のうちの1つらしい(不確定)ので、同じ家紋を使っているんです。なんか嬉しい(笑)

お庭だけの拝観だったので、お庭をぐるっと一周してからお抹茶をいただくことに。

個人的にこのお茶碗でお抹茶を頂きたかったのです!

(これどっかで買えないんだろうか…)

こんな景色を眺めながらお茶をいただいていました。

閑静な住宅街の中にあるお寺なので、水の音と風に揺れる草木の音だけが響いて静かな時間が過ごせます。

龍安寺から歩いて少しの距離なのに、訪れる人はそこまで多くないので結構穴場かもしれません。


こちらは禅宗の開祖である達磨大師を描いた達磨図。天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。

工事中のため、入ってわりとすぐの場所にあったのですが「あ、これ、あれだ!パンフで染さんたちが写真撮ってたやつだ!!!」となったのはここだけの話(笑)

※詳細は下の方に貼ってある動画からどうぞ

この等持院は足利将軍家の菩提寺であり、義輝を含めた歴代の足利将軍の木像が安置されているという縁あるお寺なのですが、義輝の痕跡って本当に少ないそうでして。最期の地も今は石碑が立っているだけの状態なんですって。

足利家といえば、やっぱり尊氏・義満・義政・義昭が教科書でも中心で扱われるので、それ以外になってくると「そんな人いるんだ~」って感じだと思うんです。

(私もお恥ずかしながら舞台を観るまで「義輝」という人がどういう人なのか知らなかったものですから…。)

義輝は、13代足利将軍として将軍としての権威の復活に努め、動乱の世に翻弄されながらも生きた人。

実際の義輝がどんな人だったのかは、史料や功績を読みながら推測するしかないんですけど、お芝居の中で見た義輝はその生き様がとても美しいなと思ったのです。


翌日には、義輝の生誕の地である「南禅寺」にも行ってきました。

訪れるのは2回目だったのですが、その時は義輝の生誕の地だということを知らなかったので、改めてその地を訪れて「ここで生まれたのか~」とちょっと感慨深かったです。



11歳で父親から将軍職を譲られ、29歳で壮絶な討死をした義輝が見たかった「世」は、一体どんなものだったんだろう…。

辞世の句にある「我が名を上げよ 雲の上まで」という部分に、義輝の志半ばの無念さがにじみ出ているような気がしました。




うちの家系とは違うようですが、一族の中には義輝の傍に仕え偏諱を受けた者もいるようです。自分のことではないのに、とても誇らしいなと思いました。

うち自体は江戸時代からの記録しかないので、本当にその一族に繋がっているのか…いや、繋がっていればいいな~。




どうでも良い話なんですけど、昔から「うちの家紋地味だな~」って思ってたんですね(笑)

ただの丸に二本線じゃないかと。

今でも、伊達みたいに凝ったカッコいい家紋に憧れはするんですけど(笑)

それでも足利の、義輝と同じ家紋なんだと思えると、この家紋でも良いなと思えるのでした。

ひといろ

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